ヴェーバー『職業としての学問』を超コンパクトに要約する

ヴェーバーの『職業としての学問』をコンパクトにまとめました。

詳細解説はこちらで行いました → ヴェーバー『職業としての学問』を解読する

ポイント

大学生向けの講演をもとにした著作。

  • 大学のポストに就くのは運次第
  • 専門家になれ
  • やるべきことをやれ
  • 学問の進歩は知性主義的(主知主義的)合理化の過程の一部
    • 知性主義的合理化=「世界の脱呪術化」Entzauberung der Welt
  • 科学は世界の意味や価値を示してくれない
    • (なぜならそれらは私たちが作り出すものだから)
  • この事実にどう立ち向かうか
    • 価値自由の規準
    • 「こうである」(事実)と「こうあるべき」(当為)を厳密に区別せよ
  • 世界観は価値に相関している
    • 絶対に「正しい」世界観は存在しない
    • なので問題は、世界観と自分の立ち位置の整合性を保つことにある
  • コツコツと学問に専念すること

学生向けの講演なので、全体的にハッパを掛けている感があります。浮ついてないでやることやれ、と。

では見ていきます。

本文

大学のポストに就くのは運次第

大学のポストに就くのは運次第。アメリカとドイツでは状況が違うとかなんとか。

専門家になれ

学問的な「個性」は、ひたすら研究に専念することで次第ににじみ出てくるもの。ある学説の解釈に夢中になれるかどうか。これで学問の向き不向きが分かる。

こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えのうえからいってもそうなのである。われわれも時折やることだが、およそ隣接領域の縄張りを侵すような仕事には一種のあきらめが必要である。

ヴェーバーの時代と現代では学問の位置づけが非常に変わってしまっているので、これだけを読んで「ヴェーバーの言うとおり!専門に閉じこもらなきゃいけないのだ!」と舞い上がるのは早すぎます。

ヴェーバーは『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』で唯物史観に群がる人びとに対して次のように批判していました。—唯物史観は素人には魅力的に映る。なぜか?「世界がこうあってほしい」という独断的な欲求を満たしてくれるからだ。

「ヴェーバーいわく専門に閉じこもれ」論もこれと同じことです。自分が専門に閉じこもりたいので、ヴェーバーの説明が魅力的に映るわけです。それ以上考えることなく満足できてしまうわけです。

やるべきことをやれ

大事なのは、事柄(Sache, affair)、つまり解くべき問題に熱心に取り組むこと。そこから学問的な個性が生まれてくる。

この点で学問は芸術に似ている。しかし学問と芸術には大きな違いがある。芸術と違い、学問は進歩するよう義務づけられている。最新の知見も明日には時代遅れになってしまうかもしれない。学問に携わるひとはこのことを忘れてはならない。

学問の進歩は知性主義的(主知主義的)合理化の過程の一部

学問の進歩は「知性主義的合理化」という、より大きな過程のひとつの側面。

知性主義的合理化とは、ある事象に何か神秘的で予測できない力が働いていると考える代わりに、一切は基本的に予測し、操作できると考えていることをいう。これを私は「世界の脱呪術化」Entzauberung der Weltと呼びたい。

私たちは洪水のような自然災害に対して、祈祷などで「大地の怒り」を沈めようとするのではなく、ダムや排水設備といったインフラの水準を向上させたり、天気予報によって対処しようとする。こうした技術と予測が、ここでいう「世界の脱呪術化」の内実。

科学は世界の意味や価値を示してくれない

科学の進歩につれて世界の意味が明らかになると思うのは大間違い。むしろ科学は世界に意味がないことを明らかにしてきた。

学問の価値を学問それ自体が証明することはできない。それは一般の人びとを含めた各人が、自分の生活上の観点から与え、解釈するもの。

これは「世界にどうせ意味などない」「しょせん解釈しかない」ということではありません。ヴェーバーはニーチェに強く影響されていましたが、そのニーチェは「意味はこちらから与えるものだ」(=認識は欲求に応じた価値解釈である)と考えていました。

ニーチェの価値論はこちらで解説しました → ニーチェ『権力への意志』を解読する(2)

価値自由の規準

学問はこの事実にどう対処すればいいか。

答えは、ただ学問それ自体に集中することだ。

「世界はこうあるべきだ」という理想像を学問のうちで振りかざすべきではない。自然法則をいくら探究しても、理想の自然世界を証明することはできない。

社会科学も同様だ。「社会はこうあるべき」と学問的に論じるべきではない。特に政策は講義のうちで取り上げられるべきトピックではない。教授が学生に世界観を強要することになってはいけないからだ。

人文的・社会的な事象の内部構造を事実レベルで確定することと、その事象のもつ価値や、その事象で私たちがどう生きるべきかについて論じることは、それぞれ別々の「事柄」だ。この区別を厳密に行うこと、それが価値自由だ。

一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、—このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。

ヴェーバーはここで「価値のない客観的な認識が可能だ」と言っているわけではありません。また、価値の探究が無意味とも言っていません。それもひとつの「事柄」であり、価値は十分探究に値すると考えていました。

ヴェーバーの構図では、私たちの認識は基本的に「価値理念」に相関しています。価値自由は、油断するとすぐにしゃしゃり出てくる価値理念を学問から引き離し、認識の客観性を確保することを目的に編み出された規準です。価値に無関係な認識が可能であることを事実レベルで言い表しているわけではありません。

世界観はバラバラなので

世界観はバラバラであり、どれが正しいかを学問的に証明することはできない。なので問題は、自分の現在の立場が、自分の信じる世界観からダイレクトに導かれるものであるかどうか、そこに欺瞞がなく、自分の行為の意味についてきちんと説明できるかどうかにある。

世界観と行為の整合性を保ち、自分の言論には責任をもつこと。これが重要だ。

コツコツと学問に専念すること

合理化の進展につれて、究極の価値を見いだすことは難しくなる。そうした価値が私たちを導いてくれるような時代は終わったのだ。

なので私たちは、自分が本当に取り組むべき問題(事柄)に集中し、ただ「日々の要求」に従うことにしよう。