カント『純粋理性批判』を超コンパクトに要約する
カントの『純粋理性批判』を出来るだけシンプルにまとめてみました。
詳細解説はこちらで行いました → カント『純粋理性批判』を解読する
なんでこんなこと考えるのか
何が善いことかを認識し、理性を道徳的に使うため。「神が善の根拠に決まってるじゃん」は通俗的。認識の可能性と限界をハッキリさせることで、普遍的な(=誰にとっても納得できる)善のポイントを見て取ることが目的。本書はそのための前提作業。
認識が構成される仕組み
私たちの認識は以下の3つの能力を通じて構成されている。
- 感性:外部データを採取する能力
- 悟性:感性によって得られたデータを結合して、概念化する能力
- 理性:完全性(完全なもの)を構想する能力
もっと詳しく見ると、以下のような感じだ。
統覚 …… 感性 → 構想力(先験的図式:時間規定) → 悟性(カテゴリー) → 認識
- 純粋直観が多様なものを与える
- 構想力がそれらを綜合する
- 純粋悟性概念(カテゴリー)がこうした純粋綜合を統一する
- → 対象を認識する
という流れ。
統覚は「私は…について考える」という意識のこと。感性と違って自発的な作用。統覚があるので認識が成り立つ。
感性について
感性は空間と時間によって規定されている。外部の対象は空間のもとで、内部の対象(心)は時間のもとで直観される。
空間は物自体(対象自体)の性質ではなく、私たちに対して現れる現象を可能とする条件。なので「『空間は、我々に外的に現れる限りの一切のものを含む』、と言うことはできるが、しかし『一切の物自体を含む』、と言うことはできない」。
ここでいくつか注を置いておきたい。
- 認識構造であれば完全に認識できる
- 物自体が認識できないといっても、私たちの認識が空想だとか想像にすぎないと言いたいわけではない
私たちの認識は第一に感性というフィルターによって規定されているので、物自体が何であるかを知ることはできない。しかし私たちの認識構造については、感性のもとで完全に認識することができる。
このことが意味するのは、認識の共通構造を見て取ることができれば、対象それ自体のあり方に関わらず、共通の認識に達するための可能性を明らかにすることができるということです。
対象それ自体が何であるかを言い当てようとすれば、それは真理(物自体)をめぐる解決不能な対立に陥ってしまう。真理をつかむことが無理だということを了解すると同時に、どうすれば普遍的な認識は可能なのかをハッキリさせなければ、理性それ自体に対する不信感が生じてしまう。カントにはそういう問題意識がありました。
また、私たちに与えられているのは、ただ対象の現われ(現象)だけだ。しかし、だからといって、認識が空想だとか想像にすぎないと言いたいわけではない。
私たちは、対象は確かに存在していると考えているし、対象の性質(大きさや形)も現実のものと見なしている。しかしそうした性質は、あくまで私たちの主観との相関関係で決まってくる。対象がそれ自体として大きいとか丸いということはないのだ。
悟性について
悟性は感性から与えられる表象をひとつの認識へギュッとまとめ上げる(=総合する)能力のことだ。
感性が受動的な感覚能力であるのに対して、悟性は自発的な判断能力。判断能力は、分量、性質、関係、様態の4つに応じて、それぞれ3つずつ、計12個ある。
悟性は「構想力」の助けを借りて総合を行うが、総合だけでは足りない。純粋悟性概念(カテゴリー)によって総合を統一することによって、初めて対象を認識することができる。
カテゴリーも判断の4つの形式に応じて、それぞれ3つずつ、計12個ある。
読んでいると大体この辺りで混乱がピークに達しますが(単一性?数多性?付属性??)、特にこの後の議論で展開されるわけではないので、バッサリカットしてもOKです。何回か通して読んだ後に戻ってくれば十分。ここで投げ出すのが一番もったいないです。
感性から与えられる対象を悟性が総合することで認識が可能となる。しかし、感性と悟性はもともと別の能力なので、悟性が感性からデータを得ずに、好き勝手に振る舞ってしまうことがある。これによって生じるものを、ここでは先験的仮象と呼んでみたい。先験的と付けたのは、この仮象が避けがたいものだから。
理性について
これまでの流れを踏まえてまとめると、
- 感性:感覚能力
- 悟性:判断の能力
- 理性:原理の能力
理性は概念によって、原理に基づき普遍的に認識する能力のこと。たとえば三段論法は理性によるもの。
理性は推論によって全体をつかもうとする。その際の枠組みが「理念」と呼ばれるもの。
理念
理念は3つある。
- 「私」の絶対的統一
- 考える私
- 世界の絶対的統一
- 現象の総体
- 「絶対的存在者=神」の絶対的統一
- 一切を可能にする第一条件
ここで注意しておくべきは、理念は実在するものではないということだ。それらが実在すると見なすことにより、以下の3つの先験的仮象がそれぞれの理念に応じて生じてくる。
- 先験的誤謬推理
- アンチノミー
- 純粋理性の理想
先験的誤謬推理
「規定される自己」が対象。自己自体は知りえない。なので直観そのものが実在するという推論は成立しない。
アンチノミー
アンチノミーは4つある。時間・空間的限界があるかないか、最小単位があるかないか、世界に自由があるかないか、世界に神(絶対者)がいるかいないか。これらについては、私たちの認識構造上、どちらが正しいかを決定することができない。この争いは非本質的な議論と考えるのがおそらく妥当だ。
アンチノミーのポイントを整理すると、大体次のような感じ。
第1アンチノミー
- 世界に時間・空間的限界はある
- ないとすれば、「無限の全体」があることになる。これは考えられないから
- 世界に時間・空間的限界はない
- あるとすれば、「無」によって限界づけられることになる。これはナンセンスだから
第2アンチノミー
- 世界に最小単位はある
- 世界は合成物なので、その基がなければならないから
- 世界に最小単位はない
- 最小単位のうちにも多様なものが含まれているから(原子の右側とか左側というように)
第3アンチノミー
- 世界に自由はある
- 完全に自発的な原因が想定されなければならないので
- 世界に自由はない(あるのは自然法則だけ)
- 力学的に見て、何らかの作用が始まるためには、それ以前の状態が前提となるから
第4アンチノミー
- 神はいる
- 変化の系列は無条件者(神)に至る完全な系列を前提しているから
- 神はいない
- いるとすれば、系列のうちに原因をもたない始まりがあることになってしまうから
純粋理性の理想
純粋理性の理想は、世界の完全な理想状態のことを指す。理想は実在しない。現実は理想から遠く離れている。しかし理想は、私たちがそこへと目がけて行為するように促す力(=統整的原理)をもっている。それは道徳的な行為の規準であり、それに従って私たちは自分の行為を整え、自分を高めることができる。
理想に関しては、他にも先験的理想がある。これは世界の存在の究極根拠に関する理想のことだ。世界全体の根拠には、根源的存在者(神)の概念がある。
「神が実在する」と言うと誤りだが
注意してほしいが、神が実在するというと誤りだ。神の存在はあくまで理性の推論にすぎない。ただし、推論とはいえ、それは道徳的な側面で意味をもつ。神の存在を想定することは確かに可能だし、理性にはそうする権利がある。むしろ、道徳法則が拘束力をもつためにこそ、神の存在が要請postulierenされなければならないのだ。